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長文コラム

2026.09.14

人生を変えてくれた人

小眼球・無水晶体眼の私が、
40年越しに眼内レンズの手術を受けるまで

あなたには
人生を変えてくれた人
何人いますか?

人は1人では生きられない。
良いことも
予期せぬことも
どんなことも
みんな誰か人が関わっている。

最近、特に
そんなことを考えるのです。

よく見つけてくれたね…
探して
たどり着いてくれた。

私の眼の手術をしてくださった、Asucaアイクリニックの野口三太朗先生がかけてくださった言葉です。

それは全部、私の言葉でもあるから。

出会ったとしても
受け入れてもらえなければ
一方通行のままだから。

去年の今頃は
想像もしていなかった事だった。
願っても、願っても
叶わないどころか、
糸口すらも見つけることができなかった。

初めて
もうダメだと思った…
今世で生きているうちは叶わないんじゃないか…って。

でも、私には
執念が足りなかった。
限界を自分で勝手に決めていた。
手を伸ばしもしないで
取りに行こうともしないで
勝手に結論を出そうとしていた。

夢や望みが叶わないのは
誰かのせいじゃない。
自分が途中でストップをかけている。

叶うまで、結論が出るまで
自分自身が
心の底から納得できるまで、
それをやり続けられたのか?
それほどまでにして貫く
価値があるものなのか?

自分に聞いて
聴いて
問い続けて
それでも成し遂げたいことなら
世間のみんなに笑われたって
貫く価値があると私は思う。

一つ一つの場面で、名前と顔が浮かんでくる

私の人生を変えてくれた人。

両親だったり、
兄だったり、
配偶者だったり、
友人だったりする中で
一つ一つの場面で
様々な人の名前や顔が浮かんでくる。

葛飾盲学校の小学部時代。
クラスで女子は私だけ。
学芸会でのクラスごとの創作劇で、浴衣を着た私が観客の前で〝でんぐり返し〟を披露すると言う演出を発案したり、盲学校の作文文集に挿絵をたくさん書かせてくださった編集長は、担任のK先生。

文京盲学校の高等部普通科で美術の授業の時、彫刻刀もまともに使えず、壊滅的に手先が不器用で生傷が絶えなかった私を見兼ねて、単位をあげるから、表で写生してきなさい…と送り出して下さったり、イラストが描きたいと言う私にスクールを紹介してくださったN先生。

同じく文京盲学校の高等部普通科で進路に悩んだ時、放送局や劇団などに一緒に足を運び、私の進路希望に寄り添ってくださったT先生は、良い結果がなかなか出せずにしょんぼりしていた私に、元気出せとこっそりうなぎをご馳走してくれました。

何のために俺はこうしているんだろうなぁ…
歩くたびに、お前の夢を壊しているみたいだ

と押し殺す様な表情でおっしゃった言葉は、今も胸から離れません。

君はいつまでに目を治すんだい?
と、気にかけてくださり、病気であることが当たり前だと思っていた私の目を覚まさせてくれたYさん。

私が自分の目の病気と向き合う気持ちになったその時に、大学病院の眼科を紹介してくださった親戚のA叔父さん。

バンドに招き入れて、様々なステージを経験させてくれた盲学校の先輩のMさん。

障害者の音楽コンクールで優秀賞をいただいたときの壇上で〝あなた歌が上手いんだから、もっと自信を持ってやりなさい〟と言葉をかけて下さった、作曲家の神津善行先生

「できない」と言われ続けた仕事を、くれた人たち

私に視力障害がある事を百も承知で、未経験でデザインの知識も全く無いのに採用して、キャラクターデザインやイラスト作成を一から叩き込んで下さり、仕事にまで結びつけて下さった水野プロダクションの水野石文社長

初代ボイストレーニングの先生であり、オリジナル曲を作ることの楽しさを教えてくださった、エートゥーナンバー・レコードの〝たーなー先生〟。
先生からいただいた「Kocoro❤︎Candy(ごころ・きゃんてぃ)」と言う歌は、後にCDが全国発売されました。
そのCD発売に力を貸してくださった、シムズ・ミュージックエンターテイメントの山田社長。

初めてのワンマンライブの時、〝お前みたいな無名のド素人の歌を聞くのにお金を取るなんて〟と言って来た兄。
無料にしろと言うので〝上等だ!やってやるよ〟と自腹を切って、恵比寿のライブハウスを満席にした。
無料にしたってお客が集まるわけではありません。あの時があったから、私は集客にこだわり、ライブの構成や細かいクオリティまで気を配る様になれました。バンドのメンバーが寄せ書きを書いて激励してくれた時は、涙が出そうになりました。

母が所属していた民舞の教室の慰問のボランティアに同行して、衣装替えの際に歌ったり、司会進行を頼まれたりする様になりました。
MCも初めは何を話していいのか分かりませんでしたが、回を重ねていくうちにお天気の事や、これから踊る出し物の事など気さくに話せる様になり〝また来てね!〟とオファーを頂ける様になりました。

ラジオのパーソナリティとしての私を後押ししてくれた、RADIO365のザイオン局長。
マイクの向こうにいる〝誰か〟に向かって言霊を送る素晴らしさを伝えて下さいました。

慰問活動に関わる様になり、人の心に残る歌を歌いたいと願う様になった私は〝ご当地ソングを歌いたい〟と願う様になりました。両親の郷里の富山県のテーマ曲の作詞募集に応募したりしましたが実りませんでした。
コロナ禍真っ只中に〝恋の竹ノ塚〟と言う歌が生まれ、思いがけなく歌わせて頂ける事になった時は本当に嬉しかったです。

大きなプロダクションに所属した事もありましたが、周りと自分を比べてばかりで疲弊していきました。
自分らしい音楽活動がしたいと、アンテナを張っていたら現在の音楽事務所の社長と出会いました。
私が話すやりたいことを、コツコツと積み上げてくださり、整理したり形にするサポートをしてくださっています。

視覚障害者がイラストレーターになるなんて、車の免許を取ろうとする様なものだ。
職業の選択肢はない、前例もないと、言われ続けて来ました。
進路を考えていた高校生の時は無理だとされていたことが、時代の流れや様々な進歩もあり、近づいたりカタチにする事が可能になりました。

眼科ジプシーの始まり

6回目の目の手術を受けた時から、連続装用可能なソフトコンタクトレンズ・東レのプレスオーというレンズにずっとお世話になっていました。
そのレンズが発売終了となったことから、私の眼科ジプシーが始まりました。

コンタクトレンズは自分で扱うものと言うのが前提なので、健常者よりも瞳が小さい小眼球と言う病気で、コンタクトレンズを扱う事がどんなに困難なことであるか、眼科の先生であっても認識できる人は少なかったのです。

それでも諦めきれず、白内障の権威と言われる先生を見つけては尋ねていきました。
帰ってくる答えはいつも同じでした。

今ここまで見えているのだから、
それを大切にしなさい…

現在の不便さは二の次なのです。

🌿 この記事に出てくる言葉

小眼球(しょうがんきゅう)
生まれつき眼球が小さい病気。瞳や角膜も小さく、白内障・緑内障・網膜剥離などを併発しやすいと言われています。まえぽんが聞いたお話では、一万人に一人の割合だそうです。
無水晶体眼(むすいしょうたいがん)
眼の中でピントを合わせる「水晶体」がない状態。まえぽんは生後9ヶ月と11ヶ月で白内障の手術を受けて以来、40年以上この状態でした。
眼内レンズを「縫い付ける」手術
水晶体の代わりになるレンズを、眼の中に固定する手術。まえぽんの場合は瞳が小さいため、小さく削った多焦点レンズを縫い付ける方法になりました。

※ まえぽん本人が医師から聞いた説明をもとにした、体験としての記述です。

65歳になったら、裸眼で生きよう

私は自分の夢のシフトチェンジを図るべく、願いを書き換えようとしていました。

65歳になったら、
コンタクトレンズはやめよう。

天寿を全うするその日まで裸眼で過ごす覚悟を決めました。
コンタクトレンズの付け外しをサポートしてくれている主人も歳をとります。そろそろ解放してあげたい。
裸眼で過ごす環境に今から慣れておけば慰問活動は続けられる。
突然見えなくなったのでは、1人で活動できなくなる…
それだけは避けたかったのです。

2026年10月28日までに結論が出せなかったら、脱・コンタクトレンズ生活に向けてシフトチェンジしようと決めていました。
歩行訓練や家事のトレーニングなど、何でも積極的に受けるつもりでした。
現在の仕事は、もう続けられないと覚悟を決めていました。

ここまで失ってしまったら
手放すものはもう何もない。

コンタクトレンズの生活を手放そうと決めた時、正直な所、どこか少し気持ちが軽くなりました。

でも、最後にひとつだけ!

どうか、ひとつだけやらせて下さい!
私の真ん中に居る良心に訴えました。

今までは、白内障だと言うことに重きを置いていたので、小眼球と言う病気について私はほとんど知らなかったのです。

小眼球。

この病気に向き合っている人。
研究者やドクター。
学会などの調査機関は無いのだろうか?

素朴な疑問が湧きました。

できるだけたくさんの言葉を選んでAIに話しかけました
そして、ついでに、40年以上も水晶体がない状態(無水晶体眼)の眼に、今更眼内レンズを入れることなんてできるのだろうか?
と言う素朴な疑問をぶつけたりしていました。

小眼球は一万人に一人の割合で発症するのだそうです。
それに加えて、白内障や緑内障、網膜剥離などを併発すると視力を失う可能性は格段に上がります。

私がちょうど20歳の時、この病気を悪化させない為にどうしたらいいかをドクターに尋ねたことがあります。
返ってきたのは…
殴り合いの喧嘩をしないこと。
そして…

子供を産まないこと。

若かったので、とてもショックを受けました。
その時に結婚を意識して居た人と別れました。その人が大切でしたが、もし命を授かった時に自分の視力と引き換えにする覚悟が、その頃の私にはまだありませんでした。

今の見える状態のまま、そっとしておきなさい、大事にしなさいと異口同音に仰る先生方の考えは決して間違いでは無いと思いますが、私を取り巻く環境は40年前と何も変わっていないと言う現実に打ちのめされていました。

コンタクトレンズや眼内レンズが進化を遂げる中で、自分の病気だけが取り残されている様な気がしてなりませんでした。

私は
諦めが悪いのです。

幾度となくAIとやりとりをして、気になるワードは全部自分で調べて、とにかく、何かにぶつかるまで、自分を納得させる結論が出るまで、私は答えを探し続けました。

それはもう、気の遠くなるような時間と情報量でした。
配偶者にさえも話したことのない夢でした。

その答えは、仙台のクリニックにありました

そして、その答えは仙台のクリニックにありました。
私は仙台に飛びました。
2026年5月のことでした。

これまでのドクターと違って、野口先生は私の見えづらさに寄り添ってくださいました。

これは大変だね…
なんとかしてあげたい。
確かに難しい手術にはなるけれど
理論上はできることなんだよ。

そんなふうに言ってもらえるとは夢にも思いませんでした。
感激して、涙が出るどころかポカーンとしてしまいました。
その後に、じんわりと感激が込み上げて来ました。

一般的な白内障の手術とは違って、小さく削った多焦点レンズを付けると言うより〝黒目に縫い付ける〟のだと聞いた時は一瞬怯みましたが、手術ができるんだと思ったら、嬉しさが恐怖を追い越して居ました。

〝難しいなぁ…〟

それでも小心者の私は、まずは悪いほうの左目から手術をお願いしますと言って手術に臨みました。

左目の手術の時、何度か心が折れそうになったと先生が仰っていました。

右目の手術の時、私の頭の右斜め上から

難しいなぁ…
   難しいなぁ…

と、先生の声がしました。
先生が闘ってくださっている…!
私も頑張らなくては…!
近づいては遠のいていく意識の中で、私はそれだけを考えていました。

手術が終わる直前、瞼の裏にモアレの様な、幾何学模様の様なものが見えました。私の新しい眼が、レンズが入ったんだなと思いました。
こんな小さな眼にメスを入れる決意をして、挑戦してくださった先生に心から敬意を表します。

後で先生は言っておられました。
難しいと口に出して言えるうちはまだ良いのだと…
本当に怖い時は声も出なくなるのでしょう。

この手術やってよかったですか?

両眼の手術が済んで少し落ち着いた頃、先生に聞かれました。

この手術やってよかったですか?

コンタクトレンズを使っていた頃の裸眼は、右が0.1で左が0.01でした。
現在は、コンディションにもよりますが、左右揃って0.15程になりました。
つまり、以前は右目ばかりを使っていたのですが、左目もそれに追いついてきた形になります。
両眼が使えるようになったのです。
まだ慣れていませんが、両眼を使うトレーニングをしています。
これは私にとって、かなり画期的なことなのです。

もちろんです。
この手術は特に左目の可能性を広げてくれた。
自分の腕のシワとか、あまり見たくないものまで見えるようになりました。

私のような小眼球と白内障のミックスを患っている人には、かなりの朗報です。小さい頃に白内障の手術を受けて、長いこと水晶体のない〝無水晶体眼〟の状態であっても可能な手術が実現したのです。

私にとっては、夢のような大成功の手術でしたと、先生にお伝えしました。

だから、私は発信することにしました

こんな画期的な手術ですが、まだまだ症例が足りず、挑戦しようとしても大変な費用がかかります。
車が買えるほどの自己負担となるのが現実です。
そういう意味では、まだまだ誰もが平等に受けられる手術であるとは言い切れません。

なので、私はこんな選択肢もあるのだと情報発信に力を入れることにしました。
この事は、野口先生のご希望でもあります。

でも、最後にひとつだけ!

私の起こしたアクションは、もしかしたら将来、大きな布石になるかもしれない。
今はまだわからないけれど、いつか
あの時のあの手術があったから
野口先生との出会いがあったから
一歩踏み出すことができたんだと
自分の人生を思い返す時が来ると思っています。

野口先生が私の人生を変えてくださったように、これまでの私の人生の中で出会った方々が私の人生を変えてくださったように、私も誰かの人生を少しだけ変えることができるかもしれません。
これは、思い上がりや傲慢な心ではなく、いただいたご恩をお返しすると言うことです。

幸福の法則は、貴方の心

私の心の師匠は〝幸福の法則は貴方の心〟だと、〝貴方の人生は夕陽ではなく太陽なんだ〟と示して下さいました。
貴方こそ1番幸福になる条件が揃っているのだと。

心配事が何も無い事が幸せじゃない。
病気があっても、
恵まれないことがあったとしても、
どんな環境にあっても、
何かに縋るのでもお願いするのでもなく、大きな難が来た時こそ
いよいよ来たか❣️
何があっても私は大丈夫なんだと
ファイティングポーズを決められる
負けない心を持って生きなさいと。

母は言っていました。
私のエゴでお前を普通の幼稚園に入れてしまった…普通の子と同じ様に出来ないし、時間もかかってしまうのに…

分厚いレンズのメガネに手垢をいっぱい付けられて帰って来たり、運動会の時に先生が一緒に走ったり、普通の園児とは決して呼べない子どもでしたから。
でも…
手探りしながらも母が挑戦してくれたから、私は小さく凝り固まることなく、卑屈になる事もなく生きて来られたんだと思います。

不思議と私は、自分の境遇を憂いたり、障害があることを恨んだりしたことがこれまで一度もないのです。
見えづらいことは不便ですが、不幸ではないと思うからです。
一つや二つ位不便な事があった方が頑張れる…
私はそんな人なのかもしれません。

私にできる事で、私らしく、その使命を果たして行く決意を固めました。
このメッセージを必要としている人の元へ届けたくて、SNSのハッシュタグに自分の病気の名前をつけました。
コンプライアンスも何もあったものではありませんが、私はド真剣です。

あなたには
人生を変えてくれた人はいますか?

🍀まえぽん

※ この記事は、まえぽん個人の体験の記録です。同じ病名でも眼の状態は一人ひとり違い、受けられる手術や費用も異なります。治療については必ず主治医にご相談ください。

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手術を終えた今も、通院と経過観察は続いています。まえぽんの慰問活動と音楽活動は、応援してくださる皆さまに支えられています。お礼として、まえぽん直筆のアート色紙(松・竹・梅の3コース)をお送りしています。ご無理のない範囲で、お力を貸していただけたら有難いです。

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BOOTH(ブース)のページが開きます。返礼アートの見本は 応援ページ からもご覧いただけます。

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